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石のつぶやき1088 米に日本人収容所があった [平成阿房伝]

ふたこと:第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。1942年から1946年に亘って実施された。大統領令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。 開設日の早い順[1]に、 収容所名、(英語名。日本語の項目がないものは英語版へのリンク):所在地を特定するのに役立つ地域もしくは近隣の町の名、州名、最大収容者数、開設日-閉鎖日 の順に記す。 ポストン強制収容所 (Poston War Relocation Center):Poston、Parker、Colorado River Indian Reservation(アリゾナ州)17814名 1942年5月8日 - 1945年11月8日  ツールレイク強制収容所 (Tule Lake War Relocation Center):Newell(カリフォルニア州)18789名 1942年5月27日 - 1946年3月20日  マンザナール強制収容所 (Manzanar):オーエンズヴァレー(カリフォルニア州)10045名 1942年6月1日-1945年11月21日 ヒラリバー強制収容所 (Gila River War Relocation Center):Gila River Indian Community(アリゾナ州)13348名 1942年7月20日-1945年9月28日 ミニドカ強制収容所 (Minidoka Internment Camp):Hunt(アイダホ州)9397名 1942年8月10日-1945年10月28日 ハートマウンテン強制収容所 (Heart Mountain War Relocation Center):Heart Mountain(ワイオミング州)10767名 1942年8月12日-1945年11月10日 グラナダ強制収容所 (Granada War Relocation Center) (通称:アマチ収容所 Amache):Granada(コロラド州)7318名 1942年8月27日-1945年10月31日 トパーズ強制収容所 (Topaz Relocation Center):Delta(ユタ州)8130名 1942年9月11日-1945年10月31日 ローワー強制収容所 (Rohwer War Relocation Center):McGehee(アーカンソー州)8475名 1942年9月18日-1945年11月30日 ジェローム強制収容所 (en:Jerome War Relocation Center):Jerome(アーカンソー州)8497名 1942年10月6日 - 1944年6月30日 ※強制収容所は最終的にツールレイクが1946年3月21日に閉鎖される。(Wikipedia) この当時、日本人及び日系アメリカ人の財産は二束三文であった。敵性外国人とされると民主主義がどうとあろうが、そんなことは一切お構いなしなのである。ナチス政権下でのユダヤ人同様、強制キャンプに収容されたのである。それは9.11以降のイスラム教徒に対するアメリカ軍グアンタナモ基地にあるテロ容疑者の収容施設をみれば70年以上前と同じ光景である。  その当時ドイツ人も同じ運命にあったはずであるが、免れている。白人の系統だからである。日本人は、忘れてはならないこと、有色人種であるという遺伝的なものだ。黄色人種なのである。  貧しいホワイトカラーが、唯一誇るものがあるとすれば、白ということだけになる。それが差別を生むということは、今の日本を見れば痛いほどわかるであろう。それが逆に日本人にそのまま向けられる刃ということであろう。
11月24日(木)16 12時42分 JST The Huffington Post Braden Goyette


  マンザナー日系人強制収容所の光景が、アメリカ合衆国史の「闇」を映し出す


アメリカのドナルド・トランプ次期大統領の政策顧問を務める作家のカール・ヒグビー氏が11月16日、イスラム教徒の入国を管理するには「第二次世界大戦中に日系人を強制収容した歴史が前例になる」と述べ、批判を浴びたこの発言から、第二次世界大戦中にアメリカ政府が設置した、日系アメリカ人の強制収容所の存在が改めてクローズアップされた

1942年、真珠湾攻撃の動揺がまだ続く中、アメリカ政府は何千人もの日系アメリカ人に対し、自分の家を離れ、人里離れた収容所に移り住むことを命じた。彼らのうち約3分の2は、市民権をもつアメリカ市民だった。

最も有名な収容所は、カリフォルニア州オーウェンズバレーに置かれたマンザナー強制収容所(当時の訳語で「マンザナール戦時轉住所」)だ



1943年の秋から、写真家アンセル・アダムスは、マンザナーに収容された人々の日常の暮らしを記録した。彼は、アメリカ市民の生活がそんな風に追い立てられたことを悲嘆し、非人道的な状況に直面した抑留者の人間性をフィルムに写し取ろうと努めた。「マンザナーに常にあるものと言えば、タール紙を貼られた粗末なバラック小屋に溜まる砂ぼこりだけだ。ただ、そこに住む数千人の人々に刻み込まれた、消えることのない印象を除けばの話だが」と、アダムスは記した。


【参考記事】「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言


アダムスと言えば、アメリカの広大な自然を捉えた写真で有名だ。しかし、あまり名前を連想されることがないのが、戦時中に日系人を抑留した強制収容所のドキュメンタリー写真だ。

この写真は、1944年にニューヨーク近代美術館で展示され、『ボーン・フリー・アンド・イコール:ストーリー・オブ・ロイヤル・ジャパニーズ・アメリカン(自由で平等に生まれて― 誠実な日系アメリカ人の物語)』というタイトルの書籍として発行された。本の序文で、アダムスはこう記している。

この本は、人々や彼らの抱える問題について社会学的な分析をしようとするものではない。これは、平均的なアメリカ市民を取り上げたものであり、人間をベースに、そして感情をベースに着想したものだ。

誠実な日系アメリカ人をあいまいで形のない少数派の集団ととらえるのではなく、1人の人間と、その環境についての真実に重きを置いている。
この本を通して、読者は、マンザナーで私と一緒に共にいた人々と出会い、収容所の雰囲気と環境を感じてもらいたい。その人たちに何らかの主義を押し付けたり、社会学的行動を主張するのではなく、読者自身が判断してもらい。
アメリカ政府は1988年、日系人の抑留について謝罪し、「人種的な偏見、戦時中のヒステリー状態、政治的リーダーシップの失敗が動機となった」と認めた

現在、アダムスがマンザナーを訪れてから70年以上が経過したが、今なお私たちは、彼のレンズを通して収容所を見て歩くことができる

写真集は いし
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サンフランシスコ人

2/25 関連映画をサンフランシスコの日本町の映画館で上映...

http://www.newpeopleworld.com/schedule/2017/2/9/2017-films-of-remembrance

http://www.nichibei.org/films-of-remembrance/
by サンフランシスコ人 (2017-02-10 07:30) 

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